第6回認知症講演会全文(もしもあなたが認知症になったら)

これは、2009年9月25日に行われた認知症講演会の全文です。女性編を創るか迷っているうちに掲載を忘れてしまいました。特に女性編を作る必要はないだろうと、今は思います。

もしも、あなたが認知症になったら・・・
認知症のあなたはどんなあなたに変わっていくのでしょうか。
そして、それをあなたは止めることができるのでしょうか?
ここに70歳になったばかりの架空の男性に登場していただきます。
なぜ70歳の男性にしたかというと、男性の平均寿命は現在78.5歳だからです。
現在70歳以上の高齢者の10人に1人は認知症といわれています。厚生労働省は今年から認知症の実態調査を行う予定ですので、もっと大きな数字になるでしょう。
ここに登場する男性もまだ認知症とは程遠いと思われる、元気はつらつとした高齢者の一人です。
何十年振りかで再会したクラス会の出席者たちを見ても、足腰が少し衰えた者、メタボで病院通いしている者など、何がしかの医療のお世話にはなっているものの、皆一見幸せそうで、自分だけ特別な存在だというわけではありません。
もちろん、クラス会に出られなくなった、入院中の者やすでに他界してしまった者たちの話も決して少なくはないお年頃ですが。


彼の毎日は・・・何もすることがありません。
長く勤めた会社は5年前に定年退職し、つい最近まで嘱託で地元の営業所に出向し、そのお役も放免になったばかりです。この5年間、時間をもてあまし、会社にも出たり出なかったりの生活で、今日が何日か、何曜日か、今日が何の祭日かわからなくても気が咎めることもありませんでした。家に籠もってないで外に出ようと友人にも誘われるのですが、見知らぬ人間の顔色を窺って話を合わせるなんてもう懲り懲り、というのが本音で、そうかといって一人でこつこつ続けるような趣味も持ち合わせていません。
「子供たちも独立してそれぞれ元気そうにやっているし、あいつはあいつで温泉パックだかなんだか気の向いたときに出かけて行って楽しんでいるようだし、俺はゆっくり休む暇もなかったから今は誰に気兼ねすることもない、のんびりするさ」
そんな彼ですが、5年ほどの歳月が流れ、足腰の衰えはもちろんですが、物忘れを感じ始めます。
昔目をかけた会社の後輩が定年退職となり挨拶に来ると昨日電話で言っていたのに、その日がいつだったかどうしても思い出せません。用心の為にメモもしておいたのにそのメモが見つかりません。昨日読んだ朝刊をまったく違和感を感じることなくまた同じ記事に目を通していることも時々あります。「はい、あなた、これ今日の新聞。昨日の新聞はもう新聞じゃないでしょ?」などと妻に言われてもあまりピンとこない始末です。
「今度妻の買い物についていったときに、この新しく出たビールを買ってこよう」といつもTVのCMを見るたびに思っていたのに、いざとなったら何が目的で妻の買い物についてきたのか思い出せません。
「親父、最近忘れっぽくなったなあ、大丈夫かよー?」家族も最初は冗談半分にそんなことを言っていたのですが、そのうち「あなた、このごろずいぶん忘れっぽくなったじゃない?大丈夫?そのうち、『俺、お飯食ってない・・・』なんて言わないでよ」などとからかわれるようにようになりました。
「俺、認知症になったのかなあ、認知症になって家族の厄介者にはなりたくないなあ」と内心思い巡らしてみましたが、確かに記憶力は衰えてきたものの、まだ普段やっている自分の身支度はちゃんとできるし、妻に頼まれたゴミ出しや洗濯物の取り込み程度もぶつぶつ文句は言っても十分できます。もちろん外出して道に迷うなどということはありませんし、妻と違って方向音痴でもありません。
「いやあ、まだ大丈夫だよ。俺はまだ認知症なんかじゃない。電話の応対はいつもあいつ任せにしていたから、この間は焦ってたから、用件をメモして電話を切ったらほっとしてぜんぶどっかへ吹っ飛んでしまったけど、まだだいじょうさ」
「でも、年はとったなあ・・・」
このときの彼は、まさか自分にも認知症が近寄ってきているとは思いもしなかったのです。
主人公はい、このころの私はこの方がおっしゃるとおり、自分が認知症になるなんて考えられませんでしたねえ。でも、このくらいの時期が「始まり」なんでしょう?「軽度認知機能障害」ていうんですよね。
数年後の彼は、明らかにどこか変わっていました。足腰も弱って遠くまで歩いて行くのはさすがに困難になりました。
物忘れはもちろんひどくなりました。毎日同じ生活の繰り返しでしたから、年月や月日の感覚がなくなっていた事にもしばらく気づかれませんでした。いつも着る物は妻が枕元に用意していたので季節感もなくなっていたことなど、知る由もありませんでした。
「東京にいる芳江から連絡はあったか?」「東京に行ってるのは、博でしょう?芳江は大阪よ」
「もうじき、お盆だっていうのにどうして子供たちから連絡がないんだ?」「何言ってるの、二人とも先月お盆休みに孫を連れて来てくれたばかりでしょう?」「いや、俺は誰にも会ってないぞ、なぜ小樽まで来てったなら親のところに顔を出さないんだ」
「おい、芳江はお盆には帰ってくるのか?」「芳江から連絡はあったか?」「何回も同じ事訊かないでよ、今忙しいんだから、もう!」
「おい、どうして今朝はパンと牛乳なんだ?」「家の朝はずうっとパン食だったでしょう?だいたい、朝はパンにすると決めたのはあなたじゃない!」「馬鹿なことを言うな、パンなんかで会社に行ってちゃんとした仕事ができるか!明日からちゃんとご飯を炊いておけ」
「俺の鞄、どこへやった?」「鞄て?」「会社に持って行ってる鞄だよ、あの中に昨日もらった給料袋が入っていただろう?あれはどこへやった?」「変な事言わないでよ、お給料は銀行振り込みで直接お金をいただいたことなんてないでしょう?それに会社だってとっくに辞めたんだから、鞄も捨ててしまったわよ」「鞄はいつも洋服ダンスに入れていただろう?どこにやったんだ」
会社?鞄?給料袋?・・・さすがにここまで来ると、家族も単なる物忘れとは思えなくなり、認知症ではないかと不安になりました。
「あなた、最近物忘れがひどくなったんじゃないかしら。病院に行って診てもらったら?」「親父、最近変だぞ。まさか呆けたんじゃないよな。頼むよ・・・」
「いい加減にしろ!寄って集って人を呆け呼ばわりしやがって。俺が家にいるのがそんなに目障りなのか!お前ら、俺をどこかに入れようとしてるんだろ!俺は絶対にそんなところには行かないからな!」
やっぱり変です。彼は会社でも家庭でも怒ったり手を上げたりする人ではありませんでした。今回のように大声を上げたり、お膳をひっくり返したり・・・誰にも想像できない姿でした。
こんなこともありました。ある日、ご近所のコンビニのご主人が家にやってきました。「あのー、僕は小さいときからおじさんのことよく知ってるからいいんですけど、おばさんに一応話しておいたほうが良いかと思って・・・。この間、おじさんが店に来てかりんとうを一袋持って行ったんです。普段一人で買い物に来る人じゃないからきっとお金を払い忘れたんだなと思ってたんですが、昨日も甘納豆を持ってお金を払わないで帰ろうとしたから、「おじさん、お金忘れたんですか、後で良いからこの間の分もお願いしますね」と言ったんですけど、なんかおじさんらしくなかったんで。」「それって、万引きじゃないの?ごめんねえ、ありがとう教えてくれて。お金払っておくから、内緒にしておいてくれる?お釣りはいらないから。迷惑かけちゃったんだし」
自分の夫、自分の父親が、気が触れたような振る舞いをする・・・誰かに相談したくても、さまざまな複雑な想いが絡まって、なかなか口にすることができません。思案の末、彼の機嫌を窺い、頃合いを見て娘がこう切り出しました。
「もうじきお父さんとお母さんの結婚記念日でしょ?今まで結婚記念日なんて何もしてあげれなかったけど、これからもお父さんお母さんにもっと元気でいてもらいたいから、二人で人間ドックに行ってみない?血圧を測ったり、血液検査をしたり、胸のレントゲンや心電図も撮ってもらったらいいよ。私たちからのプレゼントで」・・・かわいい孫と娘の笑顔には敵いません。こうして彼も病院を訪れることになりました。
しかし、いざ病院に行く日になると、「何で俺が病院に行く必要があるんだ、どこも悪いところなんてない、お前だけ行って来い」の繰り返しです。そばで娘がもう一度ゆっくり話します。「私とおにいちゃんで、お父さんたちの結婚記念日のプレゼントをしようと決めたのよ。二人でお金を出し合って、お父さんたちに健康診断を受けてもらおうと思ったの。
これからも元気で長生きしてもらいたいから。昨日前以って言っておかなくてごめんね」
こんな風に言われ、何とか彼は診察を受けたのです、娘に病院まで付き添われて。
診断結果は、家族もうすうすわかっていたように、認知症でした。
アルツハイマー型認知症、しかも中等症に入っていると言われました。
彼は、検査の後しばらく待合室で待たされ、この次に検査の結果を説明すると言われて薬をもらって帰宅しました。
「俺はどこも悪くないから、薬なんか飲む必要はない」「もう病院には行かない」そんなことの繰り返しの毎日が過ぎ、徘徊がみられるようになったのはまもなくのことでした。
主人公このころは、私は不安の塊でした。毎日毎日が怖くてたまりませんでした。自分が何かを言うたびに、そして自分が何かをするたびに、「そうじゃない」とか「だめだめ」とか「またやった」とか「ほんとに困ったものね」とか言われるんです。最初のころは優しい口調でたしなめられるくらいでしたが、それでも私にしてみたら失敗をやらかして家族にたしなめられるなんて、大黒柱としての面目丸つぶれでしたよ。それが毎日のようになると、さすがに自分でも自信がなくなりますよね。自分が情けなくなるし、自分に腹が立つし、家にいることも嫌になるし・・・う・う・う。あの、万引き騒ぎもあの後大変だったんです。子供たちに知られなくてよかったとか、警察沙汰になってたら世間の恥さらしどころか、息子や婿さんの出世の妨げになってたとか、こんな人ではなかったのにどうしちゃったのと泣きつかれたりして・・・。あのときは、急に甘いものが食べたくなって、子供のころ食べたかりんとうや甘納豆を思い出したら懐かしくなってコンビニに行ったんですよ。でも、コンビニに入ったときは何をしにきたのか忘れてしまって、店の中をうろうろしてたら、かりんとうが目に入って嬉しくなって持ってきてしまった。嬉しかったなあ。かりんとうや甘納豆を手にして嬉しかったけど、家に着いたら、何でそんなものを持ってるのかよくわからなくて、というか、そのときは食べる気もなくなっていて、結局どこかにおいて忘れてしまった。
一瞬一瞬、何かを思い立って行動したりしゃべったりするんだけど、少しすると前のことを忘れているんです。だから、自分では理由があることをしたりしゃべったりしているつもりなんだけど、説明できないし、わかってもらえない。
もう悲しいやら、悔しいやらで怒鳴ったり怒ったり、暴れたり・・・。
泣いたりわめいたり、笑ったり怒ったり、こういう感情というのは、その動機は忘れても忘れないものなんですねえ。だから、私は毎日が怖くてどこかに逃げたくて。どこってないんです。ただ、今いるところから逃げ出したかった。知ってるところといえば、以前住んでいたアパートのあったところ、だからとりあえずそこに行けばここから逃げられる、そう思ってました。
家族のことを怖いと思うなんて、聞いてる皆さんはショックでしょう?一生懸命心配してどうしたら良いかと右往左往しながら世話をしているのに、当の本人に拒絶されているんですから。
妻や子供がわからなくなったわけじゃないんです。夫としての威厳も、父親としての威厳もなくなってしまって、もう自分の居場所がなかったんです。

1年余りが過ぎたころの彼は、子供と孫の名前を区別できない、家の中でもトイレの場所がわからない、パジャマを脱いでしまう、パジャマの上に衣服を重ね着してしまう、お風呂上がりに体を拭くことができない、トイレできちんと拭くことを忘れる、トイレで済ませたあと服を直せないなどの症状がみられるようになり、グループホームに入ることになりました。5mgだったアリセプトという薬も10mgになりました。
ホームに入ってからの彼は、幸せそうでした。荒々しい表情もみられなくなり、以前の穏やかな彼に戻ったようでした。
夜中にパジャマを脱いでしまうのは、変わりません。「あのおじいちゃん、胸触ってこない?」「うんうん、絶対触ってるよね、あの手つきは」なんて声も囁かれますが、「でも、かわいいじいちゃんだよね」ということです。
彼は、その後、徐々に運動機能も衰え車椅子で移動するようになり、嚥下機能も衰えて食事もだんだん少なくなりました。やがて何度か誤嚥性の肺炎を起こして入退院を繰り返し、グループホームに入って4年後に亡くなりました。
グループホームで入浴を介助してもらう時、女性スタッフの胸を触る癖は最後まで健在だったとか。
主人公グループホームというものに廻りあえて私は幸せだったと思います。家族にもつらい思いをさせずに済みました。ホームの方たちは、とりあえずは、私がどんなことをしてもじっと耐えてくださいました。「とりあえずは」です。
でも、この「とりあえずは」で私はどんなに不安や恐怖から解放されたことでしょう。たとえ、どんなにカチンと来ることがあっても笑顔で接してくれました。「この人は、病気だから。この人は何もわからずに衝動的にやってるだけだから。たった今のことしかわかってないのだから」と思って我慢してくださったのでしょう。申し訳ないです。でもそのとおりなのです。「たった今のこと」で怒ったり泣いたり、騒いだり、歩き回ったり。次の「今」と少し前の「今」はもうつながりがないのですから。
家族?もちろん、自分の家族のことは忘れてませんよ。家族の名前や関係はわからなくなりました。でも、自分の家族の顔は忘れてません。懐かしい顔でした。妻に対しても夫婦という関係は思い出せませんでしたが、とても大事な、身近な人であることは最後まで忘れてませんでした。時間の重み、そんなものが私の大切な記憶です。長くすごした時間の積み重ね、短時間だったけれどひどく衝撃だった時間、そのどちらも「時間の重さ」として記憶に残されました。あの時、グループホームに入っていなかったら、私はきっと家族の重荷となり、悩みの種となり、それが私の「時間の重さ」となって、不幸な一生を終えていたことでしょう。
パジャマを脱ぐ習慣があったのかって?ええ、結婚する前は。結婚して子供たちと一緒に生活していたころは妻に止められていましたから、したことはなかったのですが、いつかパジャマを着ないで寝たいとずっと思ってました。やってみてください、パジャマを着た寝苦しい夜から開放されますよ。でも、裸で廊下を歩いたりしたのは、あれは物忘れのせいですね。えっ、女性の胸を触ってたのかって?は、はい、女性の胸とお尻はとても美しくて魅力的だとずっと思っていましたから、衝動的にいつも手が出てました、ごめんなさい。でも、誤解しないでください。認知症になる前は、女性に手を出したことなんか一度もありませんから。

この原稿を書きながら、こんな講演会で本当にいいのだろうかと何度も考えました。
でも、認知症について身近なものとして理解していただくには、理屈ではなくて、あなたのご近所にいる人やあなたのご家族が認知症になったときのことや、あなた自身が認知症になったときのことを考えるのが一番なのではないかと思うのです。小樽にも、認知症を支える家族の会という団体があります。認知症の方とそのご家族が同じ境遇の中でこそ理解しあえるものがあり、より多くの情報交換ができるからという趣旨で作られたものだと理解しています。同じような理由で、認知症や認知症の人についてもっと身近な存在として理解していただくために、あえてこのような形式をとりました。下手な一人芝居を見せられたと思われたなら申し訳ありません。
今回は実験的取り組みでしたので出席者が少ないと思われる男性編にしました。反響が怖かったので。
主人公が述べたように、認知症になって出てくる症状にはそれなりの理由があります。ただ、それは、認知症になる前にずっと抱いていたもの、ずっと隠し通していたものとは限りません。記憶の中から、まるで花火のようにぱっとひらめいて、次の瞬間にはまた違う花火がぱっと煌めくように記憶がよみがえる、その繰り返しなのです。どんな花火を打ち上げようとも、親はあなたを生んで育ててくれた親であり、兄弟は変わらぬ兄弟であり、あなたはこの先もあなたなのです。
最後に、主人公はグループホームに入ったことに感謝しています。そこには家族への思いやりもこめられています。
私は、認知症にならない工夫や認知症を予防する対策、あるいは認知症の進行を食い止める治療法については、ワクチンも含めていろいろな可能性に期待しています。しかし、認知症を治す取り組みは絶望的だと思っています。
認知症を深刻な状態に至らしめないための努力はできると考えています。
まず、認知症についての理解を深めることです。自分が認知症になったらどんな経過をたどるのか想像してみることも大切です。なぜなら、その症状にはあなたにさえ説明できないけれどちゃんとした「理由」があることが多いからです。強いストレスは自分にも周りにも残さないようにしましょう。
自分が認知症になったらこんな風になるのかもしれない、誰もがそう思ってみたら、あなたの隣にいる人が認知症の人であっても、その人がどんな行動をとったとしても、拒絶せずに近づくことができるのではないでしょうか?あなたが認知症のあなたを理解しようとするように、周りにいる認知症の人も理解することができるはずです。
認知症の人が幸せを感じて生活できる地域では、認知症は深刻な状態にはなりません。だから10年後は認知症は話題にならなくなると思っています。認知症の人が幸せに暮らせる地域づくり、その第一歩は認知症を頭で理解するのではなく、自分がその中に溶け込むことです。そして、まだ良く考え善く行動できるあなたが認知症の人たちを支えてあげる取り組みを始めるのです。その「時間の重み」があなたに良い記憶を残すことでしょう。
小樽にも、認知症に関わる医療や福祉や介護の団体が数多く存在します。私はそれらの団体がもっとお互いの情報を持ち寄ってより良い地域社会、認知症の人がともに暮らせる街づくりができるよう、ネットワークを強化できたらと考えています。
今までは、あるいはこれからもしばらくの間は、認知症について「知ってあげる」「理解してあげる」セミナーや、接し方を学ぶ場がたくさん設けられることでしょう。
でも、もう少ししたら、私が考えているように、自分が認知症になったとき、どんな認知症になりそのときにどのように理解し接してもらいたいのか、どのような環境を用意しておけば快適な生涯を終えることができるのかを考える動きが出てくることでしょう。
私たちは後世の日本、後世の世界のために一生懸命生きてきました。最後は苦しかったこと、つらかったことは忘れて、良い想い出の中で一生を終えても良いのではないでしょうか?
最後に、独断的な表現が多々ありましたが、ご理解くださいますようよろしくお願い申し上げます。